禅寺小僧

日々の記です。

釈迦成道

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 12月8日はお釈迦様が悟りを開かれた日です。お釈迦さまは菩提樹の下で坐禅をつづけておられましたが、夜明けの空に金星が輝くのを見て悟りを開かれたと伝えられています。今も修行僧たちはお釈迦さまの故事にならい、12月1日から8日まで1週間ぶっとおしで厳しい坐禅に励んでいます。

 お釈迦さまが求められたのは心の解放です。自分の思い通りならない苦しみを生み出す、自分という意識がどのように形作られるのか、その仕組みを紐解かれました。仏教徒は、心の自由・安らぎ・自立を求め、自分という思いに縛られすぎないように、淡々と生きてゆくのです。

 

 お釈迦さまが悟りを開くきっかけになった明けの明星は、2500年前と同じ輝きで今朝も夜明け前の東の空にあります。今年も12月8日の早朝に、かつてのお釈迦さまと同じ心境で明けの明星を見あげる修行僧が多く出てくることを願っています。

 

 

 

 

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誕生仏

 

4月8日はお釈迦さまの誕生日です。大徳寺でも乾かした甘茶の葉を煮出して甘茶を作って、天と地を指さす誕生仏に注ぎます。伝説ではお釈迦さまは生まれてすぐに、東西南北に7歩ずつ歩きいて、天地を指さし、「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)と言われたそうです。

 

東西南北と上と下。「この世界で、ただ私を最も尊重します」と宣言されたのです。何ものにも頼らない。他の人の意見や、誰かが考えた哲学や教義を尊重するのではありません。またお釈迦さま神さまからつかわされたのでもありません。神の言葉を伝えに来られたのはないのです。

 

内閣府の平成30年度の調査~日本の若者意識の現状~国際比較からみえてくるもの~ https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/r01gaiyou/s0_1.html

には興味深いデータが載っています。

「自分自身に満足している」という問いに、「そう思う」と答えた日本の若者は10.4%、アメリカの若者は57.9%でした。

 

「つまらないものですが」と言って贈り物を手渡すような、つつましさが日本の文化には根付いています。そのことで無用の衝突も防がれていることでしょう。ですがちょっと残念な気もします。

 

外国で生活したことがある友人の話では、外国人は自信があって発言力が強いそうです。子供のころから、あなたは特別だ才能があると褒められて育てられるからかもしれません。

 

自分自身の子供の頃を思い出してみても、怒られてばかりでした。親にホメられたことはあまり記憶にありません。友達のお母さんや隣の組の担任の先生に励まされたことはあったけど。近くにいる人には怒られてばかりいたような。お前は変わってる、変人や、とも。

 

でもそこが出発点だったのかもしれません。他の大勢の人と自分は違うかもしれないけれど、そこを土台に立ち上がるのです。その先にはたぶん険しい道が続いているでしょうが。

 

お釈迦さま誕生物語を読むと、他人の価値観にただ従うのではなく、自分自身の奥底の気持ちや沸き上がるものに眼を向けようとする姿勢を感じるのです。

 

 

 

大徳寺の概要

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大徳寺京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派大本山です。

枯淡な松林に囲まれて山門・仏殿・法堂・方丈・庫裡・僧堂・浴室・経蔵・鐘楼などの伽藍があり、2つの別院と22の塔頭を残し、江戸時代の禅寺の雰囲気を今に伝えています。

 

鎌倉時代後期の正和4年(1315年)、大燈国師(宗峰妙超)は紫野の地に庵を結び「大徳」の扁を掲げました。やがて南北朝時代北朝花園上皇大徳寺を御祈願所とし、南朝後醍醐天皇は勅願道場としました。皇室の寺として大徳寺は五山制度の寺院よりも格上とされましたが、やがて大徳寺は幕府の五山制度からはずれ独自の道を歩みます。

 

室町時代には応仁の乱による兵火で灰燼に帰しますが、今も一休さんの名で親しまれる一休禅師によって再興されます。一休禅師に参禅した堺の豪商・尾和宗麟は方丈・仏殿を再建し、同じく連歌師の柴屋軒宗長は山門を再建しました。また様々な文化人が集い、一休禅師の禅は日本文化に大きな影響を与えます。

 

佗茶の祖・村田珠光は一休禅師に、武野紹鷗や千利休は大林宗套に参禅し、「茶禅一味」と称されるほど大徳寺の禅は茶道に大きな影響を与えました。

 

戦国時代には大徳寺僧は戦国武将に禅を説きます。そして戦国武将によって創建された塔頭大徳寺には今も沢山残されています。また豊臣秀吉織田信長の葬儀を大徳寺で営みました。千利休が寄進した山門の二階に利休の木像が置かれたことに秀吉が怒り、千利休切腹させられた話も有名です。

 

明治維新後の廃仏毀釈では多くの塔頭が失われましたが、清冽な空気が流れる境内では、今も禅の修行が続けられています。